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旅の写真 ドイツ・チェコ
・オーストリア・ハンガリー
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ドイツ・ベルリン
←ベルリンの壁(Berliner Mauer)
東ドイツの中にあった西ベルリン(西ドイツ)を取り囲んでいた壁。東ドイツが1961年8月13日に建設を始めた。1989年11月9日に崩壊し、一部が記念碑としてドイツに残されている。西ベルリン側には、落書きが多かった。
←ブランデンブルグ門(Brandenburger Tor)
ベルリンのシンボルとされる門で正面部はパリ広場の東に面している。1868年に城壁が取壊されるまでベルリンは都城都市だった。18箇所あった門の最も重要な門の一つで、1788年から3年間で建設され、戦後は東ベルリンに属していた。
国会議事堂→
(Reichstagsgebaude)  ドイツベルリンのシューブー川畔にあり、旧ドイツ国議会議事堂として1894年完成。1933年全焼したが、1964年改造、1990年ドイツ再統一の式典が行われ、連邦議会の議事堂として利用することが決まり、大規模な修復に着手し、1999年に完成した。
ペルガモン博物館→
(Pergamonmuseum)  ベルリンにある「古代美術コレクション部門」「古代近東博物館」「イスラム美術館」の3部門からなる考古学博物館。19世紀前半フリートリヒ・ヴェルヘルム4世によってシュプレー川の中州「博物館島」(世界遺産)に建てられた。館名の由来にもなっているヘレニズム期の「ペルガモンの大祭壇」を初めとするギリシャ、ローマ、中近東の美術、イスラム美術などを収納する。
シャルロッテンブルグ宮殿→
(The Charlottenburg Palace) 1701年に初代プロイセン国王となったフリードリッヒ1世が王妃ゾフィー・シャルロッテのために建てた夏の離宮。ヴェルサイユ宮殿を模したとも言われる本館と両翼が美しい。
ドイツ・ポツダム〜ライプツィヒ〜マイセン
←サンスーシー庭園
フリードリッヒ大王が18世紀の半ばに夏の宮殿として建てた。名前のサンスーシーはフランス語で「憂いのない」という意味である。王が友人と哲学を語ったり、音楽を楽しんだ。建物はドイツロココ様式の最高傑作と言われ、階段状の庭園には葡萄とイチジクが交互に植えられ、イチジクのところにはガラスのドアがはめられ温室効果を得ている。
←ツェツィーリエンホフ宮殿
1945年アメリカ、イギリス、ロシアの首脳が集まり、第2次世界大戦の戦後処理を話し合い、「ポツダム宣言がなされた会議室の丸いテーブルや椅子がそのまま展示されている。1888年に即位したヴェルヘルム2世が1913〜19年にかけて住居として建てた。英国チューター洋式。
ライプチッヒ→
ドイツ東部、ザクセン地方の都市。1813年、ここでプロイセンをはじめとする同盟軍がナポレオン軍に大勝。書籍出版・楽器製造・国際見本市で有名。ワグナーの生地。人口約48万人。音楽で有名なヨハン・セバスチャン・バッハは、生涯の後半をこの町のザンクト・トーマス教会のオルガニスト兼聖歌隊指揮者として活躍し、多くの音楽を作曲した。
マイセン→
ドイツ東部、ドレスデン北西方の小都市。マイセン磁器で有名。1709年、ヨーロッパで初めて硬質磁器の製造に成功。日本の柿右衛門などの影響を受けたことでも有名。今でも高品質の名声を保つ。人口約3万人
佐賀県有田町と姉妹都市
ドイツ・ドレスデン
←ブリュールのテラス(Bruehlsche Terrasse)
エルベ川沿いに1km程の長さに亘って広がる、16世紀の要塞の跡地。その後18世紀にブリュール伯爵の庭園が造られ、ブリュールのテラスと呼ばれる。高台になっているので対岸の眺めが良く、「ヨーロッパのバルコニー」との異名もある。対岸には右手にザクセン行政府首相府(赤い丸屋根)、左手にザクセン財務省の建物が見える。
ドレスデン
ドイツ東部の工業・文化都市。エルベ川に沿う。古くザクセンの首都。1945年に空襲で破壊されたが、ツヴィンガー宮殿など古建築は戦後復旧。精密光学機械・ビール醸造で著名。人口約47万人。
ドレスデンの中心には聖母教会がある。1726年建設開始、1743年に完成したが1945年2月13日のドレスデン大空襲と火災で崩壊。1996年から再建が始められ、2004年7月建物外部が、2005年10月30日には内部も完成し式典が開かれた。
チェコ・プラハ


←プラハ城内
プラハはチェコ共和国の首都。中世の面影を色濃く残す。ヴルタヴァ川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置し、交通・文化の中心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。人口約122万。1968年、知識人らを中心におこった自由化・民主化運動がソ連軍などに弾圧されたプラハの春で有名。プラハ城はハラッチャニの丘に建ち、市街を見下ろす。すでに9世紀にはこの場所に貴族の城が建てられていたが、現在の形になったのは14世紀のカレル4世の時代。広大な敷地内にはプラハ最大の教会である聖ビート教会や、ハプスブルク家に支配されるまでは王の居城だった旧王宮、10世紀に建てられたプラハ城内でもっとも古い教会聖イジー教会などがある。聖イジー教会の奥は召使や職人、錬金術師などが住んでいた黄金小路。ここには一時期、作家のフランツ・カフカも住んでいた。
←カレル橋(Charles Bridge)
プラハに流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっているヨーロッパに現存する最古の石橋。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成。橋の長さは516mで幅は10m。16連のアーチから構成されている。また橋を守るために3つの塔が建てられておりとくに旧市街側の塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいる。その多くはバロック様式。
天文時計
プラハの旧市街広場に1410年に作られたという天文時計がある。からくり時計になっていて、毎時に上部の2つの窓に人形が何体か見える。丸い部分の両側に各2体、計8体の人形がいて、これらがいろいろな動きをする。上右手前の白っぽい人形は死神。上部の丸いところは天動説をもとにした天体時計になっていて、日付、日の出、日の入り、月の出、月の入りなどを表している。
オーストリア・ウィーン
シェーンブルン宮殿→
ウィーンの中心部から西に直線で約5kmの位置にある。 1569年、皇帝マクシミリアン2世がこの地を購入し、1686年になって皇帝レオポルト1世がフィッシャー・フォン・エアラッハに命じて宮殿を建設させた。レオポルト1世は、ルイ14世の建てたヴェルサイユ宮殿のような宮殿を目指したが、設計図はできたが資金が足りなかった。そのため、途中で工事が中断していたものを、マリア・テレジア引き継いで完成させた。夏の離宮として使われ、暖かい年には3月下旬から11月初旬頃まで、女帝一家が投宿していた。壁の色はマリア・テレジア色といわれる黄色である。


ヨハン・シュトラウスの像(Johann Strauss)
「美しき青きドナウ」、「ウィーンの森の物語」をはじめ、19世紀に総数400にも及ぶワルツを作曲した、ヨハン・シュトラウスの黄金像。この黄金像はエドムント・ヘルマーという彫刻家によって彫られ、1921年に世に出された。黄金像はウィーン市立公園の中にある。市立公園(Stadtpark)には、数多くの音楽家の像があるが、なかでもこのヨハン・シュトラウス像は、リンクからも正面に見える位置にある。
ハンガリー・エステルゴム〜センテンドレ
←エステルゴム大聖堂(The Basilica of Esztergom)
エステルゴムはハンガリー初代王イシュトヴァーン生誕の地で、当時の首都。大聖堂はハンガリーで最大のカトリック教会で、信仰の中心。10世紀に聖ステファン王によって建造されたが、オスマントルコの軍隊により崩壊させられた。しかし、その一部は礼拝堂として生き残った。現在の建物は、1822〜69年に新古典主義様式で建造されたものである。
←センテンドレ
ブダペスト北方20kmい位置するセンテンドレは、14世紀〜17世紀のオスマン・トルコ支配から逃れて来たセルビア人やギリシア人達が開発した小さな町である。旧市街地区の広場周辺には絵画的な綺麗な家々が建ち並び、アートギャラリーや小奇麗なレストラン・カフェ、小さな博物館などが点在する。芸術家のコロニーとして世界的に有名な町で、ハンガリーを代表する陶芸作家マルギット・コバーチをはじめとする、新旧多くの芸術家達の作品観ることができる。ローマ以来の長い歴史の中でハンガリー人だけでなく、セルビア人、スロバキア人、ドイツ人などこの町に住みついた人々の各々の文化の継承と融合により現在の姿の土台ができあがった。
ハンガリー・ブダペスト
ハンガリー・ブダペスト→
(Hungary Budapest)ハンガリーは、面積9.3万平方km、人口1,009万人の国で、言語はハンガリー語、9世紀に民族定住。首都ブダペストはハンガリー最大の都市で、人口196万人。1872年、右岸の町ブダと左岸の町ペストが合併。ドナウ川の両岸に広がった都市で右岸(西側)のブダとオーブタ、左岸(東側)のペシュト(ペスト)の3地区からなる。機械工業が盛ん。
国会議事堂(Orsza Ghaz)
ハンガリーがオーストリアの政治的支配から脱出して、自分たちの国会議事堂が建設できるようになった時「ウィーンに負けない素晴らしい建物を!」合い言葉に建設された。建設には1884〜1904年にかけて10年以上がかかった。今も使用しており毎日24時間衛兵が警備している。
←ホークロアショー(folklore show)
ハンガリーはアジアを起源とするマジャール民族の国家です。マジャール人は元は騎馬民族で、文化として残されている民族舞踊は、激しくて力強くすばやい動きを伴う踊りです。踊りは即興性が高く、衣装として、男性は黒いチョッキに黒ズボン、女性はエプロンのついたひざ下丈のスカートが多い。
←ブタペスト夜景
ブタペストは10世紀の初め、スラブ系マジャール人が都を建設、交易で発展した。モンゴル族の破壊があったものの15世紀には商都として大いに栄えた。しかし、16世紀にオスマントルコが支配、17世紀にはオスマントルコを撃退したハプスブルク家の支配下に入り、19世紀にオーストリア・ハンガリー二重帝国として自治の一部を回復、20世紀はソ連邦の一員になり、ベルリンの壁崩壊と前後して自由化した。13世紀にゴシック様式で再建されたマーチャーシュ教会、14世紀以降にゴシック様式で建設され、ルネッサンス様式に改修されたブタ王宮、国会議事堂などの建築物があり、「ドナウの真珠」と呼ばれる。